連休で海外に。海の向こうの四国の松山です。国内線のヒコーキに乗るのは久しぶり。着いた日は道後温泉に一泊。本物の道後温泉につかりにはいきませんでした。なんせ連休なので人が多く、入るのに1時間待ちとかでしたのでね。道後温泉本館の傍にからくり時計があって、30分に1回せり上がって人形が出現します。観光なんで人力車にのって道後の町を一巡したのですが、この車引きのお兄さんの説明によると、からくり時計の一番下の温泉につかった人形の一つが漱石で、
真ん中らしい。この日は関東地方が大雨で、自宅から駅までが徒歩でしたので、キャリアバッグに雨が大量にかかりました。この手のバッグ(飛行機内に持ち込み可能な大きさの車輪のついたやつ)は防水に決まっていると信じてなにも手をほどこさなかったのですが、鞄の中の湿度が高くなっちゃって、カメラのレンズが曇っちゃって使い物になりませんでした。レンズをはずし、すかすかにして人力車に乗って風をあててようやく曇りがとれました。カメラにとって危険でしたが、水没したわけではないので、そのまま乾燥させればなんとかなるだろということにしました。その通り乾燥したらなんでもなかったように見えますがどうでしょうか?
ホテルでは飲んで食って温泉につかってリラックス。なんせ自分で決めないスケジュールというのはいいもんで楽しんでます。
翌日は松山から車で内子町へ。下の写真は内子町にある大正時代に建てられた劇場です。内子座です。
内子という町は明治にハゼの木の実の蝋を精製して大儲けした商人がいて発展した町です。ハゼの木の実を砕き、加熱して圧搾すると蝋がとれるわけです。当然、そのままでは不純物が含まれているわけですが、そのまま加熱して芯の周りに巻きつけたのが和蝋燭です。ですから和蝋燭はたいてい薄い褐色の色がついています。これを木灰と混ぜて加熱し、水溶性の不純物を流しだし、水に散らして細かくして太陽にさらすと、紫外線で白くなるわけですな。この工程をプラントにしたわけで、プラントといっても人件費が安いので多くの人手をかけたものですが、白い蝋はクレヨンのようなものや、化粧品になったわけです。製品を海外を含め送り出した人がいて、財をなした人がいたわけです。現在の価格で10億円相当の屋敷を建てたわけですな。工場も兼ねていました。昭和に入ると石油から作られるパラフィンにとって代わられ衰退してしまいました。愛媛の地方の小さな町はこれで潤ったわけで、当時の屋敷とかが保存され、今でも観光地として役立っているわけです。大正時代はこの蝋生産で町は豊かだったので内子座という劇場を建てたわけですな。商いと暮らし博物館となっている商家は元は薬屋のようで、当時の商家
の様子を再現しています。町の規模からいってこんな大きな薬屋が商売になったのだろうかとい疑問もでてきます。交通の便としては内子町がそれほど良い場所とも思えません。そのほか図書館となっている建物とか当時の繁栄した様子がうかえる街並みです。散策のコースになっている路の両脇は当時の民家がほとんどそのままの形で残っています。その後この町に大きな産業がなかったわけで、当時の箱物が、戦災も受けず残っているという町です。どうやら町が努力して国とから予算をとって保存に努めているようです。
散策のコースの民家は当然観光地ですので土産物屋、軽食、喫茶店と代わっています。その1つの土産物屋のおっさんが、内子の町は木蝋の生産が大きかったわけではない、内子は木蝋の町ではないとか説明していました。この店の主要商品は手作りの掃除用の刷毛のようで、パソコンのキーボードや仏壇の埃をはらうのに適した刷毛だと言っています。しかしこのような目的に使うには1本1500円と価格が高いので買うのはやめました。ちょうど、職場で小さなフライス盤ボール盤を導入したばかりなので削りかすを除く刷毛が欲しかったのですがね。なぜ、この店主が内子は木蝋の生産地として突出しているわけではないとわめいているのかの原因は不明です。なんの不満があるんでしょうか?通りの民家の一つに和蝋燭を売る店があるのですが、内子町は和蝋燭の生産地ではないわけ、つまり和蝋燭の有名産地でもないわけで、ここの店主と仲がわるいんでしょうかね。この店で売っている刷毛をみると、確かに刷毛の毛の部分は植物性、棕櫚なのでしょうか、ですが、束ねているのはエナメル線で、特に昔からの民具とは思えません。
交番てのは、こんなに大きいのもあるのか?という交番にしては立派な建物もがありましたよ。
ネットでみると大江健三郎が内子町の出身となっていました。なんで観光対象にしないのだろうか?と思ってさらに探ると、現在の内子町は近隣の村が統合されてできた町で、大江健三郎は旧内子町出身ではないからのようです。
内子から今度は松山市を抜けて今治へ。時間があったので、さらに先のいしまなみ海道の南端の大島までドライブしました。大島のカレイ山展望台から瀬戸内海を望みました。
今治でも飲んで食って温泉につかって寝るという、これ以上の楽しみがあるかというわけでした。
翌朝、今治城を見て、空港へ。
今治城は昭和になって鉄筋コンクリートで作ったもので、外見は設立当時のものでしょうけど、中の構造は面白くなかったですな。木造で再現してくれればいいのに。鉄筋だったらエレベータでもつくったらいいのでは?と思いましたよ。なに、天守閣のてっぺんまでの階段がつらいからだろ?といわれたら、そうかもねと答えますけど。一気に5階の階段を上ったわけではないですので苦しくもなんともないですけど。下りは一気でしたが、こういう階段を下るのは大腿四頭筋を遠心性収縮させるので、翌日遅延性筋痛が発生するのですけど、まだ5階位の階段では生じませんでした。最近足腰の筋が衰えているのでちと気にかかりましたよ。
松山空港を昼に出発して戻ってきました。久しぶりに楽しい旅行でした。自分でマネージしない旅行というのも楽しいですな。
こんにちわ、内子町の者です。内子の町のことなど、普段気になるご意見をあちこち拝読させていただいていましたら、こちらにたどりつきました。個人的に「町」の観光のあり方に、心を痛めているので、コメントさせてください。生まれたときからその場所に住んでいる人を大切にできない「町の職員さん」が、この小さな観光地を訪れるお客さんが多く抱く疑問の原因です。私はこの町出身ではないのですが、ハタで見ていても、本当の事を言うということが、この小さい地域で、どんなに大変なのか、非常に考えさせられ、今調べている所です。ところで、棕櫚の箒作りは、和歌山の特産で、この内子の職人さんは、その和歌山から移住されたご先祖さんの子孫であり、まっとうな職人さんです。今は棕櫚の繊維を集めて良い素材に保つという作業が、経済的にとても現代ではできないので、先代さんからの物を大切に商品にして販売しています。手箒は、普及版という扱いですから、伝統工芸士としての、本業の商品、棕櫚箒の職人さんですので、お間違いなく。内子町は「白壁と木蝋」という、町の観光推進として、江戸末期から大正時代の事をメインに持ってきていますが、観光が時代の変化に遅れた結果の事です。町並み保存地区指定の当時、個人の滞在型、平均2時間の観光が重要だったのですが、今では20分程度の通過型団体客に変化しています。この対応の遅れと、それを払拭できる住民の力が、「町営のハコモノ」に削がれてきた現実も、内子の歴史を正しくお伝えできていない原因になっています。町並み成立は、室町時代建立の願成寺、高昌寺が中心になった「寺町」からの発展ということなので、遍路と、金毘羅詣での文化が大きな影響力を持っていたようです。(愛媛県生涯学習センターデータベース「えひめの」記憶、参考にしました。)貴重なご意見として、参考にさせていただきました事、有難うございました。